伝説のバックパッカーの足跡を求めて、南タイから「深夜特急」でバンコクを目指す旅。
チュンポーン。タイランド湾を横切るフェリーに乗り込んだとき、その名前に全く聞き覚えがなかったわけではない。その朝、僕はオフシーズンの離島を出発し、本土に位置するチュンポーンという地方都市に向かっていた。
チュンポーン。
その地名に馴染みがあったのは、ノンフィクション作家・沢木耕太郎の書籍『深夜特急』のおかげだ。
1970年代初頭、デリーからロンドンまでのバス旅を記録したこの旅行記は、僕の中学時代のバイブルだった。地元の中学という狭い世界に飽き飽きしたヤングアダルトとして、ユーラシア大陸を駆け抜ける一人旅を何度も夢見たものだ。
『深夜特急』は、沢木がデリーに到着するまでの長い前日譚で始まるが、実際はその部分がシリーズの半分近くを占める。各地で繰り広げられる物語の数々によって、僕の香港や東南アジアへの憧れはかきたてられ、今も続いている。
そしてチュンポーンとは、バンコクからペナン、シンガポールへのマレー半島縦断の途中で、著者が一晩を過ごすことになった地なのである。彼は文庫本第二巻の一節でこの体験について記している。特に詳細なわけではないが、鮮明な部分だった。少なくとも、その特徴的な町の名前は記憶に残った。
繁忙期を外れて静かなパンガン島で、10日間のタイ一人旅の〆をどう過ごすか考えていた時、この本のことをふと思い出した。
パンガン島に来る前は、首都バンコクと、北の古都チェンマイにそれぞれ数日ずつ滞在してきた。旅はいよいよ終わりに近づいていた。預けていたスーツケースを回収して帰国する飛行機に乗るために、バンコクに戻らなければならない。しかしただドンムアン空港に直行するより、帰り際で何か面白い体験がしたいと思っていた。
パンガン島からはフェリーが1日1便出ていて、夕方にチュンポーン市郊外の海岸に到着すると聞いた。そこで、沢木が半世紀近く前に通ったルートとは逆に、この地点から北行きの夜行列車に乗ってみるのはどうだろうかと考えた。
オンライン予約したその列車は、チュンポーン駅を23時23分に出発予定だった。沢木のエッセイへのオマージュかのように、まさに「深夜特急」ではないか。
パーティーシーズン外で宿泊者のほとんどいない島のゲストハウスを出る時、僕はこの計画にかなりワクワクしていた。
フェリーは夕方4時半ごろ桟橋に到着した。自分を含め、乗船者のほとんどはタイランド湾のリゾート離島を訪れた観光客のようだ。湿地帯の中に敷かれた道路をバスで移動し、1時間ほどで町の中心部に到着した。
日が暮れようとしていた。町の内外から人々が集まり、即席の屋台があちこちに現れ始めた。夜が訪れると、バイクや車や歩行者がナイトバザールの周りを行き交い、大通りがにわかに賑わいだした。しかしそこには、チェンマイやバンコクの一部で見られたような観光地っぽさはほとんど感じられなかった。
チュンポーンの一夜
「プラットホームから駅の周辺を眺め渡したが、月明かりに背の高い椰子の木が照らされているばかりで、およそ商店街などと呼べるようなところはありそうもない。いったい宿屋があるのかどうかさえも覚つかない。」
沢木耕太郎『深夜特急』(1986),第五章第二節
沢木が見た1973年のチュンポーンである。朝3時にこの町に到着した彼は、バンコクからの夜行列車内で知り合った地元の若者たちの助けを借りて、格安ホテルに宿をとることになる。確かに、バンコクからやってきた彼にとっては、ここは少々田舎すぎるように写ったかもしれない。最終的にシンガポールのチャンギ空港を次の目的地に決めるまでの数週間、彼は首都の塵埃と騒音の中で過ごしてきたのだ。
現在のチュンポーンはそこまで寂れた辺境ではない。タイ南部への玄関口として、この町の属する同名の県は人口50万人の中規模自治体へと成長してきた。商業も発展し、中心部には格調高いショッピングモールも建っている。僕はその施設の中にあったスタバでカメラを充電した。
中心部では頻繁に、高級車やお洒落なファッションに身を包む若者の姿を見かけた。そうした光景が、東南アジア第二の経済大国の地域社会について教えてくれることは多い。
ASEAN諸国を旅していて、道路を横切る大量のバイクに出くわすことは全く驚きではないと思うが、車の交通量は各国それぞれ違いがあるので、地域の経済状態を把握する手掛かりになる。タイは、人口あたりの自動車保有数ランキングで東南アジア3位についている。1位・2位はそれぞれブルネイとマレーシアだ。
観光客やホワイトカラー労働者がほとんど居ないこのローカルな町でも、通りを走る車両の種類(とその背後にあるインフラ)を見れば、この国の中産階級の興隆は明らかだと僕は思った。
確かに、ここマレー半島北部はタイ国内で最も貧しい地域ではない。より困窮しているとされているのは、深南部や、北東部のイーサーン地域である。しかしこの町の風景は、タイの田舎について僕が元々抱いていた印象を覆すには充分だった。
メインストリートの雑踏の中にしばらく紛れた後で、まだ夕食には少し早いので、中心地から離れた薄暗いエリアに行ってみることにした。裏通りは外灯が最小限しかなく、廃業した店の跡や、まだ営業している店の上に吊られている裸電球とあいまって、なんとなくダークな印象を受ける。
そんな暗い通りのある角に、まばらに間隔を開けて立ったり、軒先のプラスチックの椅子に座ったりしている一群の人々がいた。マッサージ店の前でお喋りしている人たちもいれば、通りのこちら側を凝視してくる人もいた。全員が女性だった。
47年前、チュンポーンの安宿で朝11時に目を覚ました沢木は、2階の洗面所で歯を磨いていた時、「四十はとうに超えていそう」な女性と出くわした。子連れのセックスワーカーだった。その女性の病に冒された身体と、小さな子供が隣で遊んでいるのにも関わらず「スリープ?」と尋ねてくるしつこさを彼は克明に描写している。緊迫したやりとりの末、前夜の地元の若者たちが観光に連れ出しにきたことで、この場面は突如中断する。
沢木はこの一件から「どことなく沈んだ」気分を感じ、その日の正午発の南行き列車ですぐに次の目的地へ立ち去ってしまった。
登場人物自体は最近再読するまで忘れていたが、この唐突ともいえる挿話によって、僕はこの本のチュンポーンの節のことをなんとなく覚えていたような気もする。
この1973年のストーリーは、あるいは、今しがたチュンポーンの裏路地で目撃した光景とは関係ないのかもしれない。そこにいた女性たちと会話したわけではなく、彼らについて確かなことは何もわからない。彼らが立ちんぼだったとしても、何も怪しいことはないのかもしれない。何かを決めつけるべきではないと思う。
ただ正直に言えば、僕自身がその場に感じた空気は、なんとなく不審なものだった。その不審さは、観光立国タイの闇の一面に関する断片的な知識を思い出させるには充分だった。例えば、組織犯罪が人身売買を行っていて、その構造はヨーロッパ・オーストラリア・東アジアなど裕福な国から訪れるセックスツーリストたちによって維持されている、といった話だ。
その場に数分居ただけのバックパッカーとして、この件について深く語ることはできない。僕はジャーナリストではなく、ただ色々と考えを巡らせたに過ぎない。ただこのエッセイを書くにあたって、この町で見聞きしたものに加えて、自分の意識の流れもそのまま記しておくべきなのではないかと思った。
こうすることで、沢木の足跡をノンフィクションの文章作法の上でも追いたいという気持ちがあった。彼が『深夜特急』アジア編の大きな主題の一つである経済格差と性産業について書いた時の、その(昭和の男性作家という基準から見て)率直かつ冷徹な文体を僕は尊敬している。
夜市の喧騒
既に7時を回っていた。夕飯を物色するため大通りに引き返す。ナイトマーケット地区の端に差し掛かっただけで、屋台街の周りに人々が集まり、賑わいの最高潮なのが見てとれた。
最初は軽食から試そうと思った。パートンコーという、小さな揚げドーナッツに似た食べ物を頼んだ。屋台のおばちゃんは注文を受けてから、こぶし大の生地を油を張った鍋に投入し、揚げあがると熱いまま紙袋に包んでくれる。
中国の油条(ヨウティアオ)の影響を受けたと言われるこのスナック菓子は、チュロスのように軽いがもっと素朴な味をしている。なので甘くてミルキーなディップソースとともに供される。このソースはパンダンの葉由来の風味が含まれた緑色のものだが、口にしてみるとそこまで植物っぽさは感じなかった。
空腹だったところにカロリーの高いお菓子を食べたので相当の満足感があったが、少し甘ったるい後味が残った。そこで、もっとあっさりしていてスパイシーな別の屋台料理を探し歩くことにした。
盛況の大通りを行き来する人々の中に、トランスジェンダーの女性を目にした。一度ではなく二度見た。タイ社会の性のアイデンティティの多様さは聞き及んでいたが、それはバンコクやパタヤ、プーケットのナイトクラブのような華やかな場所のものだと思っていた僕は、驚かされた。
他国と違ってタイでは、トランスセクシュアリティはリベラルな都市文化の特権ではなく、少なくとも外見上は地域社会に根付いたものだということが、この光景から見て取れた。この国の性の多様性の起源はどこにあるのか、そして(西洋的な意味で)「開明君主」とされてきた近代チャクリ王朝の王たちの社会改革とどういった関係にあるのか、気になった。
チュンポーン県は海岸に面していることもあり、屋台には貝・海老・魚の切り身・魚肉ボールなど、タイランド湾の様々な海産物が並んでいる。しかし、屋台で生鮮食品を口にするのは、特に夜行列車に乗る際の胃腸の状態を考えると憚られた。
そこでこの時は、切り分けられた茹で鶏・タイ米を炊いたご飯・キュウリの付け合わせからなる人気料理、カオマンガイを選んだ。
カオマンガイは、僕にとって本当に頼りになるメニューだった。初心者時代、パパイヤサラダのような高度な一品に無謀な挑戦をしてからは避けがちだったタイ料理への苦手意識を正してくれたのは、他でもなくこのカオマンガイだ。そのシンプルで、汎アジア的な味付け(この料理もまた中国の海南鶏飯がベースとなっているとされる)のおかげで、僕はその後タイ料理のめくるめく世界にすんなり入っていくことができた。だからカオマンガイには非常に感謝している。
そんなクラシックな料理を40バーツ、大体130円ぐらいで注文した。「揚げていないタイプのカオマンガイををください」というフレーズは、(もちろんカンペを見ながらだが)10日間の旅行で言えるようになってしまったタイ語の一つだ。出来上がった料理と、ついてきた辛いソースの小皿を持って、地元のおばちゃんたちの間に席をとった。期待通り、あっさりしたチキン料理でとても美味しかった。調子に乗って、冒険的になりすぎるまでは。
それが何だったのか正確にはわからないが、生の唐辛子スライスを浮かべたソースが本当に辛い。強烈な辛味が南タイ料理の特徴だと知ったのは後になってからだった。思い切って残りの唐辛子を全部ご飯にかけてしまった後の、その一口目から僕の顔はきつく歪んだ。目の前のおばちゃんが困惑している。必死で言葉を探す。
「ペッ!ペッ!」と訴えかけるように、ソースの小皿を指差して僕は言った。「ああ、ペッ」とおばちゃんは応えてくれた。「辛い」を意味するタイ語だ。
なんとかそのメニューを完食した頃には、8時を過ぎていた。次第に大通りの活気が弱まってるくるのを感じて、僕は駅に向かうことにした。
バンコク行き快速170号
『深夜特急』の中で、書名の由来を沢木はこう説明している。それはかつてトルコの囚人たちが、脱獄を意味する隠語として使っていたスラングだという(彼はこのことを、1978年の同名のハリウッド映画で知ったらしい)。
この旅行記に関しては興味深い事実がある。旅の元々の目的であったデリーからロンドンまでの区間については、友人との賭けに勝つため、全て路線バスで移動することが条件だった。そして彼はこのルートで中東や南欧を抜けていくとき、実際にそのルールに従っている。
すなわち書名や、文庫版第1巻の表紙を飾る戦間期フランスの画家・A.M.カッサンドルのアールデコ調『北急行』ポスターのイメージとは裏腹に、この本は鉄道とほとんど関係ないのである。
しかし旅の前半、デリーに着くまではどんな交通手段を取っても構わないことにしていたので、マレー半島のパートはその数少ない例外ともいえる。時代背景を考えれば、この変則ルールにも納得がいくと思う。1973年、バックパッカーたちが香港からシンガポール、インドまで陸路で到達するのは不可能に近かった。インドシナ半島がこの頃殺戮の地へと一変していただけでなく、軍事政権下のミャンマーや、独立直後の混乱のバングラデシュを抜けていくのも非現実的だったはずからだ。
僕は熱心な鉄道オタクではないが、日本社会の一員として、特に世界有数の公共交通網が発達している東京で生まれ育った者として、交通機関といえばまずは鉄道というほどそれは身近な存在だ。
だがそうは言っても、夜行列車のベッドの上で寝るというのは全く疎遠な世界だった。日本でもまだ寝台列車が残っているところもあるらしいが、とっくに高速バスや飛行機の後塵を拝し、料金は非常に高額だという。A地点→B地点への移動手段に特にこだわりのない僕のような乗客には、なおのこと縁がなかった。
今、ベッドの上で寝ている間に数百キロ離れた都市に運ばれる、という人生初の体験をしようとしていた。その列車名は決して期待を裏切らず、大してセクシーなものではなかった……「快速170号」。しかし僕にとってそれはほとんど魔法の絨毯のようで、しかもタイ国鉄当局のおかげでたった650バーツ(約2,200円)で乗れるのだ。
そんな興奮を覚えながら、列車の出発時刻の3時間以上前に駅にやってきてしまった。中心部では店じまいが始まり暗くなってきたので、他に時間を潰せる場所がないという理由もあった。一方、駅の校内やホームは照明で照らされ、そこにはマレーシア国境に近い南部の中心都市・ハジャイ行きやバンコク行きの列車を待つ多くの人々の姿があった。
ホームの端の近くの公衆便所に、有料で使えるシャワールームがあった。冷水しか出ないし、前の人が使ったであろう石鹸が床に転がっているような、大して衛生的には見えない設備だった。が、フェリーの甲板で日に焼けた長い1日の終わりで、次は翌日深夜に空港に着くまでシャワーを浴びることができないと考えると、ありがたかった。
そしてついに、待つ以外にやることもなく手持ち無沙汰になった。バッテリーが切れても車内で充電できないという状況を想定して(この直感は正しかったと後でわかった)、スマホやカメラを弄ることもしなかった。ただ毎回の列車の到着時に繰り返される、人の波を眺めていただけだ。
夜行列車が到着すると、警笛・構内アナウンス・ホームを行き交う人々の話し声などあらゆる音がいっぺんに鳴り出してにわかに騒がしくなる。列車の乗客や、警備中の警官、そしてバケツに商品を詰めて乗客に水や軽食を売り歩く行商人たちが入り乱れる。
10分後、警笛の音とともに彼らはそれぞれの方向に消え去った。ここで一連のサイクルが巻き戻され、また長い待ち時間が始まるのだった。夜が更けていくにつれて、ホームで待つ人々の数も次第に少なくなっていった。
なんとなく予想はしていたが、果たして、目的の列車は到着時刻になっても現れなかった。構内に掲げられた時刻表によれば午後11時23分の到着のはずだったが、時間を過ぎても現れない。そもそもこの時刻表からして、タイ語の下に書かれた英語表記に「PAPID」や「REPID」など数々の誤字があった。(これはチュンポーン駅が委託した印刷業者のミスなのだろうか? 「RAPID」の打ち間違いで生じた誤字とは信じにくい)
しかし、心配したほど事態は悲惨ではなかった。11時45分ごろ、例によって駅員のうるさい構内放送とともに、快速170号がホームに入ってきた。若干の疲れを感じながら、今夜の宿となるべき二等寝台車を探す。12号車の12号席の下段ベッドだった。
第一印象は、滲みるような寒さだった。
二等寝台車にも2つの種類があって、伝統的な扇風機がついた車両とエアコンがついている車両のうち、僕が乗ったのは後者のタイプだ。実はエアコン車が非常に冷え込むことは知っていたのだが、タイ国鉄公式サイトから予約する時、扇風機車は既に完売していた。渋々、だが必要に駆られて、バックパックから重ね着できるものを可能な限り取り出して着込む。
案の定、ベッド横の壁に設置されたコンセントは機能しない。諦めてカメラの電源を切り、スマホはアラームをかけて備え付けの枕の下に置いた頃、警笛が聞こえてきた。ついにチュンポーン駅を出発するのだ。暗闇の中、腕時計の蛍光針がほぼ真夜中を指していた。
この「深夜特急」のベッドに横になっている感覚は、奇妙なものだった。床は動くし、車輪の音が絶え間なく耳に響いてくる。夜通し落ち着かないのではないかと一瞬心配になったが、一日の長い移動と探検の疲れから、いつの間にか深い眠りに落ちていた。そのまま朝まで熟睡だった。
のち、去年9月に、今度は「寝台バス」なるものに乗る機会があった。友達とのカンボジア旅行中に、その乗り物でプノンペンからシェムリアップまで一晩で移動することになった。このバスの二段ベッドの上段は寝台列車にもまして大きく揺れたが、僕はなぜか何も問題なく寝ることができた。ひょっとすると快速170号の経験のおかげだったのかもしれない。
夜明け
6時ちょっと前に目を覚ましたので、アラームが鳴り出す前に止めた。ベッドの傍の窓は東向きについていて、朧げながらも、マレー半島の木曜日の始まりが視界に入ってくる。バックパックの中をかき回し、眼鏡を探してかけた。
すぐに、湿地帯の上、飛び交う雲の中から朝日が昇っていくのが見えた。
それからは結構な間、ベッドの下から聞こえてくるカタンコトンという車輪の音を聞きながら、窓の外を眺めていた。過ぎ去っていくのは無数の椰子の木、田舎の小さな駅、建設現場の作業員や材木などの山。所々に流れていた水から、昨夜この辺りは雨だったのだろうと思われた。
しばらくすると車掌がやってきてベッドを収納し始めた。下段のベッドはボックス席に転換できるようになっている。車掌は、一つのベッドにつき20秒ぐらいの熟練の手つきで次々とその作業をこなしながら通路を進んでいく。早起きの乗客は緑のカーテンから姿を現して席につく一方、上段のベッドではまだ寝ている人もいた。彼らがもう少しだけ夢を見ていられたのは車掌の慈悲の賜物だ。
木曜日が少しずつ始まる。
列車が新たな駅に停車するたび、アナウンスが「サターニー・○○、サターニー・○○」と響く。「駅」のタイ語を間違いなく覚えてしまった。
数分以上停車するような大きめの駅では、地元の商売人たちが乗り込んできて、朝ごはんを売り歩く。彼らはいろんな商品を売っていた。電気ポットを持ち込んでカップ麺か何かを作っている人もいれば、お盆いっぱいのゼリーのようなデザートを持ってきた人もいた。
お手洗いに寄ったついでに、列車の最後尾に行ってみた。そこには小さい窓がついていて、後ろの地平線まで平野を真っ直ぐ伸びていく線路が見下ろせる。踏切、設備維持の人たちや沼、木々が線路に沿って過ぎ去っていった。
朝の数時間がそうして過ぎていった。席に戻って、もう一度眠りにつく。
再びバンコクへ
再び目を覚ました時、景色の端に高層ビル群が見えた。もうすっかり大都会に近づいていたのだ。郊外の線路脇には貧困層のスラムが形成されていた。下水道とプラスチックの廃棄物の山のすぐ近くにトタンで囲われた家屋が立ち並び、たくさんの人々が生活していた。
10時ごろ、快速170号は1時間遅れでバンコク中央駅に到着した。「サターニー・クルンテープ」と、駅員のアナウンスが響く。クルンテープとはバンコクのタイ語の通称だ。
慌ただしく人々が行き来する駅の建物に入って、公衆食堂に向かう。遅めの朝食としてご飯と牛の焼肉、黄色いキャベツの盛り合わせを頼んで食べた。朝食を済ませると、スーツケースを預けたクロントイ地区の倉庫に向かうため、地下鉄の改札に降りていく。
こうして、僕の南タイ旅行と、沢木耕太郎の足跡をたどるささやかな巡礼の旅は幕を閉じた。
あとがき:この旅行記は、2019年5月のタイ旅行の記録である。この春、旅行とは全く無縁で永遠に続くかのような隔離生活を持て余すに至り、写真や記憶を頼りに1年越しにフォトエッセイの筆を執った。
遡って書くといえば、沢木耕太郎が『深夜特急』を完成させた経緯は驚異的である。彼が実際に旅したのは1970年代初頭で、その後10年以上かけて旅行記の第1巻を上梓した。最終巻が出版されたのはなんと1992年になってからだった。